無宗教葬とは?~自由な演出、さまざまなスタイル~
無宗教葬の誕生を考える
「無宗教葬」という言葉も世間に定着して久しいのではないでしょうか?「家族葬」と並んで、新たな葬儀スタイルとして無宗教葬が選ばれています。
新たな葬儀スタイルの誕生には、従来のスタンダードな葬儀スタイルの反動という側面が必ずあります。
従来のスタンダードな葬儀スタイルとは、
①漢族親族だけでなく故人や遺族の関係者にも参列してもらって、
②通夜葬儀という二日間の日程で
③仏教寺院を招いて菩提を弔ってもらう
という3要素を満たしたものでした。これらの反動として、
①の反動 家族親族だけの「家族葬」
②の反動 一日だけで済ます「一日葬」
③の反動 宗教者を招かない「無宗教葬」
などというさまざまな葬儀のスタイルが生まれてきました。
(※「従来のスタンダードの葬儀」とは言うものの、葬儀の方法はスタイルによって常に流動的に変化しており、ここでの「従来」は1960年代くらいから始まった大型化された葬儀を指しています)
お寺様を招かないのはいくつか理由があるのでしょうが、核家族化や若い世代の都市への流出によって地縁によるつながりが薄れてしまったのが大きな原因です。
そのため、宗教行事(法事やお祭りなども含む)や寺院が生活の中から消えてなくなってしまい、宗教の唱える死後の世界や先祖祭祀が信じられなくなり、そうするとお寺に包むお布施も馬鹿らしく思えてきて、こうして寺離れが進んでいます。死者の供養と地縁は、極めて密接に絡み合っていました。
しかし、お葬式はすでに宗教行為であって、それを先導する宗教者を遺族が望まないだけで、死に伴う通過儀礼としての宗教儀式の必要性を、遺族は感じているわけです(でないと葬儀をしようとは思わないですものね)。
お葬式は立派な宗教儀礼です。それをしようとしている方々が、たとえ宗教者が不要だからといって、彼らを「無宗教」と断じるのとは話が異なります。初詣も、七五三も、お墓参りも、すべて宗教行為ですから。
無宗教と無神論
無宗教と無神論は厳密に定義が異なります。
無神論は、神仏や霊魂などといった目に見えないけどいるであろうという、形而上的存在を否定することです。ですから多くの日本人は無神論者ではなくて無宗教者であると言えるでしょう。
ちなみにこんなデータがあります。
世界で一番信者の多い宗教はキリスト教、2位はイスラム教、3位はなんと、無宗教なのです。
・1位 キリスト教 約22億人
・2位 イスラム教 約16億人
・3位 無宗教 約11億人 (2012年ピュー・リサーチ・センター調べ)。
この11億人の無宗教の内訳がどうなのかまでは分かりかねますが特定の宗教を信仰しないという人の割合がこんなにもいるわけです。
さらに、日本国内では1位が無宗教で51.8%、2位が仏教で34.9%です(2006年電通調べ)。
日本人の場合は特定の宗教は信仰しないが、宗教的感情は持っている、という方が多いと思われます。決して全てが無神論というわけではないでしょう。
無宗教葬の是と非
さあ、そこで「無宗教葬」です。
商品やスタイルの多様化は消費者に選択肢を与え、よい面ももちろんあります。
「お布施の額が高すぎて払えない」「お葬式の時だけ、訳の分からないお経を読むだけのお坊さんはいらない」「もっとこだわりのある故人らしいお葬式をしたい」
そんなニーズの受け皿として、無宗教葬は有益です。無宗教葬のない時代、このような思いを持った消費者の思いを誰が応えることができたでしょうか。
と同時に、死者の供養や、悲嘆の処理は並大抵ではありません。
みなさんは普段の生活の中で、宗教的心情や霊魂について感じたり考えたりすることがそう多くないかと思います。しかし、いざ身近な人の死を体験すると、思いのほか感受性は鋭敏になり、目に見えない者の存在の大きさに身震いしてしまうものです。
お寺様との付き合いは、葬儀の時よりも、むしろその後の供養や法事の面での方がウェイトが大きいと私自身は考えています。寺院はたしかに伝統主義に甘んじているかもしれませんが、伝統だからこそできる役割というものもあります。
仏教寺院は社会の中での影響力の低下の要因をよく考えて、現代社会での本当の役割を考えなければなりませんし、寺院中心の葬儀はたしかに形骸化しているでしょう。
それでも、消費者が自分たちの家族の供養をどれだけ自分たちの力で果たすことができるのか、過信している側面も大きいのではないかと思います。
宗教者はもっと社会に歩み寄り、そして消費者はもっと宗教者の力を信じてみる。そういった双方の歩み寄りが必要ではないのかと考えます。
それらを踏まえて、もう一度、無宗教葬を考え直してみませんか? 故人と残された遺族の関わりが薄れていかないような選択が望ましいです。
無宗教葬は宗教儀式
無宗教ではあるものの、葬儀という儀式ですから、何らかの装飾や演出といった大枠がないことには、送り出す側の遺族の気持ちが落ち着かないことでしょう。
宗教者の力を借りない分、葬儀社の担当者の力量が重要になってくると思われます。究極の無宗教葬は、家族だけで執り行う直葬です。
しかし、宗教者を呼ばなくても、遺族がただの直葬ではなくて葬儀という儀式を希望するということはどういうことなのでしょうか。
私は、人間が儀式を必要とする生き物であることを表しているように思えます。残された遺族の心情をケアするだけでなく、故人の尊厳を保証し、それを遺族が再確認するという、葬儀の重要な役割が根底にあるように思われます。
それこそが「宗教心」なのではないでしょうか?
さて、日本の葬送の歴史を見てみますと、仏教寺院の僧侶や、聖や毛坊主といった僧侶など、権威や在野に関わらず、弔いごとには仏道に身を置く僧侶が導師を務めるといった慣習が少なくとも1000年近くは続いています。
無宗教葬は導師のいない葬儀です。無宗教葬に決まりごとはなく、自分たちの方法で故人を送り出すことがことができます。これこそが無宗教葬の最大の良さであり、画期的な点であると思われます。
無宗教葬の2つの動機
しかしまた、決まり事がないことが遺族を戸惑わせることもあります。
私の経験からしますと、無宗教葬の動機には2つあります。積極的動機と消極的動機です。
積極的動機とは、「こだわりのある葬儀をしたい!」「自分たちの手で故人を送り出したい」「故人の望んでいた葬儀の形にしたい」などの、葬儀に対しての意志やイメージが明確な場合です。喪主は葬儀社と密にコミュニケーションを図って、素晴らしいお葬式を創りあげていただきたいものです。
一方、消極的動機とは「宗教臭いのはいやだ」「お坊さんに支払うお布施が無駄だ」などの、宗教に対して価値を見いだせない方のお葬式の場合です。だけれども故人を送り出す儀式は執り行いたいと考えるわけですから「じゃあ、代わりに何をするのか?」という壁に突き当たります。結局は、従来の仏式のスタイルを変形させたものに落ち着くことが多いようです。白木祭壇は花祭壇に、僧侶の読経は親族や知人の弔事に、焼香は献花に、といったところでしょうか。
無宗教葬のさまざまな内容
一般的な無宗教葬はこのような流れになります。
1.親族・参列者着席
2.開式の辞
3.黙祷4.故人の略歴紹介
5.親族や知人による弔辞、あるいは故人へのお手紙6.弔電の奉読
7.生前故人の好んだ歌曲(生演奏や、スライドショーや映像を流すこともあります)
8.施主・親族・参列者の順に献花
9.喪主・親族代表の挨拶
10.閉式の辞
もちろん上記は一例です。
無宗教葬に決まりごとはありませんから、自由な発想でお葬式をプランニングできます。
空間演出や司会などの進行上の演出など、こだわりのある方は事前に葬儀社を訊ねてみて、柔軟な対応と提案力のある葬儀社を見極めましょう。結婚式と違って企画から施行までの時間が限られていますので、事前相談はおすすめです。
故人の好きだった音楽
無宗教葬では故人の好きだった音楽を場内で流し静聴する、というのがよく用いられてます。
あるいは音楽の生演奏。チェリストやバイオリニストを式場に招いてということも可能でしょうし、筆者が担当させていただいたお客様は、故人がかつて吹奏楽をされていたことから、大学の同窓生による生演奏の献奏というものもさせていただきました。すばらしい無宗教葬でした。
忌野清志郎さんの葬儀は「ロック葬」でした。これも故人らしく、素晴らしい無宗教葬だと思います。
プロジェクターやモニターを持ち込んで故人を偲ぶ映像を流すという手法もよく用いられています。
「故人らしく」「私たちの手で」という考えから、無宗教葬はさらなる広がりを見せています。形骸化してしまったお葬式ではなく、温かい気持ちになれる葬儀を望まれる方は、是非一度、葬儀社に事前相談に出向いたり、終活セミナーなどに足を運んでみましょう。プランニングが物を言うだけに、早めの備えはとても有益だと思われます。