臨済宗のお葬式
臨済宗の基本情報
開祖:栄西(1141~1215)
本尊:釈迦牟尼仏
本山:妙心寺(妙心寺派/京都)
・建仁寺(建仁寺派/京都)
・東福寺(東福寺派/京都)
・南禅寺(南禅寺派/京都)
・天龍寺(天龍寺派/京都)
・相国寺(相国寺派/京都)
・大徳寺(大徳寺派/京都)
・建長寺(建長寺派/神奈川)
・円覚寺(円覚寺派/神奈川)
・仏通寺(仏通寺派/広島)
・永源寺(永源寺派/滋賀)
・国泰寺(国泰寺派/富山)
・方広寺(方広寺派/静岡)
・向嶽寺(向嶽寺派/山梨)
経典・『般若心経』『観音経』『大悲呪』『白隠禅師坐禅和讃』など
信者数・109万5532人(『宗教年鑑』文化庁編/平成24年版)
臨済宗の歴史
臨済宗とは中国禅宗五家の一つで、唐の禅僧である臨済義玄(?-867)によって創宗されました。
禅宗における血脈相承のことを「法嗣(ほっす)」と呼びますが、これは、師匠から弟子への教義や戒律などの伝承を、師匠の全人格の伝承を通じて行われることを重要だとしています。経典などの教えの枠組みがないために、禅宗は時代を経るごとに広がりを見せています。
これらの遡った起源は当然釈迦です。釈迦の説く正しい教え(正法)を伝承したのが、直接教えられた迦葉、阿難陀と続き、28代目の達磨大師が禅宗の祖となりました。
やがて中国禅は北宗と南宗に分裂し、慧能に始まる南宗は、青原行思と南岳壊譲という二人の優れた高僧を輩出し、南岳壊譲、馬祖道一、百丈壊海、黄檗希運という法系を嗣いで、臨済義玄が臨済宗を開きます。法嗣は現代にまで脈々と受け継がれています。
日本への禅の渡来は、栄西以前にもいくつかの禅僧が唐から日本に渡って来たという記録が残っています。日本に渡来してきた禅は四十六伝あり、そのうち流派を成したのは二十四派だと言われています。日本に初めて臨済禅を伝えたのは栄西ですが、すでに他派の禅が日本に渡来していたかもしれないと考えられています。
しかし、栄西の系譜は早くに途絶えてしまいます。室町時代は武家政権に支持されていた臨済宗ですが、やがて曹洞宗や黄檗宗に比べて衰退してしまいますが、その臨済宗を復興させたの江戸時代の白隠慧鶴(1686-1769)で、現在における臨済宗十四全ての流派の中興の祖とされています。
臨済宗の教え
先にも記述した通り、臨済宗では法嗣(師匠から弟子への直接的な血脈相承)が重要とされています。これは中心となる仏や経典に依存しないことを意味します。
禅宗における悟りとは、人間誰もがが本来持っている純粋な人間性(仏性)を、坐禅・公案・読経・作務などと通じて自覚(見性)することです。
臨済宗の特徴は坐禅にならぶ修行法の「看話禅(かんなぜん)」です。これは師匠と弟子との間で交わされる「公案」(禅問答)のことです。
臨済宗の文化的側面
中国における禅は禅僧だけのものではありませんでした。禅の精神は朱子学や陽明学といった儒教哲学や、漢詩などの文学、山水画や庭園造立などの美術などにも影響を与えました。
日本においても室町幕府の政治や、室町文化に多大な影響を与えました。同じ禅宗の曹洞宗が民衆の指示を得るのに対して、臨済宗は室町幕府の保護管理下に置かれ、五山十刹
(幕府による寺格の制定)が生まれ、重要寺院はすべて臨済宗が占めました。
臨済宗の葬儀
臨済宗の葬儀では正式に仏弟子にするための「授戒」と、故人を仏の世界に送り出す「引導」が中心に置かれます。
○通夜
「観音経」「大悲心陀羅尼」を読誦した後、和讃などが唱えられます。
○葬儀
禅宗の葬儀は「授戒」から始まり「引導」を渡します。
- 入堂
(2)剃髪:導師がかみそりを持って「剃髪の偈」を唱えます。仏弟子になるために髪を剃る儀式をします
(3)懺悔文:これまでに作った罪を懺悔します
(4)三帰戒文:仏・法・僧に帰依することを誓います
(5)三聚浄戒・十重禁戒
(6)血脈授与:香に薫じて霊前に安置します
(7)入龕諷経:遺体が棺に入るときに行う。「大悲呪」と「回向文」が唱えられます
(8)龕前念誦:棺を閉ざすときに行う。「大悲呪」と「回向文」が唱えられます
(9)起龕諷経:出棺に際して行う。「大悲呪」と「回向文」が唱えられます
(10)山頭念誦(さんとうねんじゅ) 葬場へ向かう時の儀礼でしたが、現在は次の引導法語までは寺で営まれます。山頭とは葬場のことです。『往生咒』が読まれ、ハチや太鼓など鳴らし物が叩かれます。
※(7)から(10)は、本来は葬列に先立つ葬儀として執り行われていたため、納棺に対しての儀式が行われていました。現代では儀式化されたものになっています。
(11)引導法語:導師によって引導法語が唱えられます
(12)焼香:「観音経」などが唱えられ、焼香が行われます。焼香回数は1回です。
(13)出棺